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5月30日夕方、雨の中、福島県議会で、大震災関連の補正予算の説明会を聞いた。

福島県議会で、3月11日以前、福島原発の安全性に疑問を持ち、質問を繰り返したのは、女性議員だった。その女性は、共産党所属の福島県議会議員。神山えつ子、宮川えみ子、藤川しゅく子の3人。

福島原発と闘う3人の女性県議_c0166264_18532819.jpg
 3人に対して各部長による補正予算説明会が行われていた。その部屋にはいり、傍聴席に座った。

2、30人の男性群が座っていた。よく見たら、部屋の向こうに女性が3人座っていた。3人とも小柄なせいか、大勢の男性の大きな背中にさえぎられて見えにくかった。3人は、大震災の対策について、被災者の声をもとにねばり強く食い下がった。女性たちの使う普段着の言葉づかい、男性たちの使う行政用語だらけの言葉ーーーそのコントラストは、時間のたつのも忘れるほど面白かった。

何回か入れ替わりがあったものの、部長・局長、課長など説明者席には、私の見た限り、女性はひとりもいなかった。

「2020年まで30%」は夢のまた夢。「2020まで30%」は、2020年まであらゆる政策決定の場に女性を30%入れようと、政府が決めた数字。災害救援・復興政策は基本的生活をまずとりもどすこと。ここにこそ「2020年まで30%」ではないか。

詳しい内容は、追って報告する。

(敬称略)
# by bekokuma321 | 2011-06-01 19:03 | 紛争・大災害

伊藤由子は、被害が甚大だった石巻から車で1時間余の加美町に住む。加美町周辺にたいした被害はなかった。そこで、石巻の避難所に食べ物を届けるボランティアを始めた。発案したのは近所の女ともだち。

最初は、おいなりさんとタオルと水だった。みんなおいしいと笑顔で食べてくれた。その1週間後、近所に「おにぎりを握って届けま~す。9時から12時の間におにぎりを持ってきてくださ~い」と呼びかけた。チラシもつくった。

なんと3800個のおにぎりが集まった。はっと汁(宮城県の郷土料理)450人分と一緒に避難所に届けた。非常に寒い日だったうえ、菓子パンなどの“非常食”しか食べられなかった人たちの喜んだこと! 

チーム・ウルフ:女たちの支援_c0166264_1748528.jpg

夫たちは、「休みになると家にいない」と顔をしかめていることが多かった。ところが、そんな夫たちを一度連れて行ったら、次には率先して同行するようになった。家でいやいやおにぎりを握っていた高校生も、石巻で被災した人たちを見て態度が変わった。「僕、ぜいたくいえない」と生活を見直すようになった。中には自分一人で石巻に出かけ、泥出しボランティアに加わった高校生もいる。

女性たちが始めた避難所支援は、男たちを巻き込み、家族を変えていった。伊藤たちは、この新グループに「チーム・ウルフ」と名前をつけた。女性たちの住む住所表記に「狼」という漢字があるからだという。伊藤は、「国の役人や議員も現地に足を運んでほしい」と言う。

ノルウェーの探検家でノーベル平和賞受賞者ナンセンは、「隣人愛こそ政治だ」と言っていたという。ノルウェー語で«Nestekjærlighet er realpolitikk». 伊藤こそ、真の政治家だと思う。

伊藤由子は、宮城県加美町議。女性議員がひとりもいなかった加美町に女性議員を、と運動していた。誰も出る人が見つからず自分が立候補。伊藤の当選で、加美町は、「女性ゼロ議会」から「紅一点議会」に変わった。

【写真は、ある日のメニューを書いたのれん】

(敬称略)

# by bekokuma321 | 2011-06-01 18:00 | 紛争・大災害・パンデミック

魚がない魚の町

石巻は日本屈指の魚のまちだ。「魚町」という町名もある。

しかし漁業のまち石巻に、魚類はなにひとつなかった。田畑も多い土地だが、野菜や果物も何もなかった

震災後2か月半たった5月29日、やっと再開した石巻市内のスーパー。そこに行って、見た現実は…。

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5月29日の午後。スーパーの鮮魚売り場


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同スーパーの野菜売り場

空前絶後の災害に涙も枯れ果てた人々…。復旧・復興は一時の猶予も許されない。だが、放射能汚染により一向に進まない。誰のせいなのだ! 漁業・農業で生きてきた人たちは、その怒りと絶望をどこにぶつけていいかわからない。だから、押し黙るしかないのだ。
# by bekokuma321 | 2011-06-01 17:12 | 紛争・大災害

宮城県石巻市へ

5月29日、大雨。

早起きして、仙台から石巻に向かった。伊藤由子(宮城県加美町議)の友人・手代木彰雄の車に乗せてもらった。

三陸自動車道にはいると、「災害派遣隊」と書いた自衛隊の車が目立ってくる。「ここらは、みな(津波が)かぶってますね」と手代木はいう。あたりの常緑樹の多くは茶褐色に変色している。無数の献花が並ぶ広場は火葬を待つ土葬の群れだ。

石巻にはいる。死者3000人以上、行方不明者約3000人、避難者約7000人のまちだ。

 クリックで大きなサイズに変る。2カ月半経ても手つかずの町

行けども行けども、がれき、がれき、がれき。海のにおいに加え、腐臭・塵芥などが入り混じった悪臭が鼻をつく。民家は壊滅状態。海岸道路に並ぶ日本製紙工場、伊藤製鉄、日通、エステーなど、石巻臨海工業地帯の痕跡がかろうじてわかる。

 日和山から見た被災した石巻市

 日和山公園の麓に立つ近藤武文(左)、伊藤由子

日和山公園に登ると根こそぎ飲み込まれた、変わり果てた町が一望できる。展望スポットにたくさんの花が手向けられていた。5、60mのこの山に登った人は全員助かった。あの日からここが市民の「祈りの場」と化しているという。私が登った時も無残な町をじっと見つめている女性がいた。

大津波の後がまだ残る大川小学校に到着。2か月間に大まかな片付け・清掃がなされていた。でも、泥をかぶったランドセルや文房具が少し残されていた。教室の時計は4時5分前を指して止まっている。



そんな中、1,2年をかけてドキュメンタリー映画を作ろうという挑戦が始まった。29日午後、石巻にある専修大学で「宮城からの報告~こども・学校・地域」製作委員会準備会が発足した。青池憲司監督・一之瀬正史撮影のコンビが石巻に住みついて住民に寄り添いながら復興のプロセスを記録するという。代表は石巻市の阿部和夫、事務局長は仙台市の佐藤進。男性が多いものの、石巻の女性2人の参加はうれしい。子どもを中心に撮影するなら、もっと女性が多くていい。

驚いたのは、地震・津波の甚大な被害に見舞われた、この石巻で、原発について考える集いが開かれていると聞いたことだ。夕方、その集いが開催されている市内の労働会館に車で移動した。雨足がひどくなる。「地震で地盤沈下したため、これ以上振ると大変だ」と皆心配顔だ。

石巻には女川原発がある。昨年3号機の燃料棒から原子炉への放射性物質漏えいが公表されたばかり。参加したのは、近藤武文、伊藤由子など「原子力発電を考える石巻市民の会」のメンバー。「事故などありえない」とウソをついてきた国の防災対策について批判的報告があった(日下郁郎)。

参加者には、身近な知人を失い、襲い来る余震や水害におびえる中、ライフラインすら不十分な生活におかれている人もいる。そんな苦悩の中で、さらに原発事故について考えなければならないとは!



(敬称略)

■河北新報「復興の歩み映画化…」http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110527_01.htm
■原子力発電を考える石巻市民の会http://shiminnokai.info/
■止めようプルサーマル! 止めよう核燃料サイクル! 女川原発地元連絡会
http://o-renrakukai.info/
# by bekokuma321 | 2011-06-01 16:57 | 紛争・大災害・パンデミック

「子どものケアをと言ったらどっと来たが、お母さんケアと言ったら誰もこなかった。子どもを災害で亡くしたりすごく傷ついている母親はたくさんいるのに、これっておかしい!」と言うのは、「のびすく」スタッフの伊藤。のびすくとは、ハイハイ・ヨチヨチの子育てを応援する施設」(のびすくホームページ)。 のびすくは、今後、グリーフ・ケアをする計画だ。

宮城の女性が語る被災体験 2_c0166264_21053.jpgエスペランチストの斉藤ツメは、たいした被害にあわなかった。それで沿岸部に住む親せきの安否確認のため、車を走らせた。街の信号はみな止まっていた。ずぶぬれになったままがれきの上に何時間も置かれ、翌日、ヘリコプターに救助され九死に一生を得た親戚の女性について語った。がれきの付近で夕方、彼女と一緒に「助けてぇー」と叫んでいた声はヘリコプターが来た時にはもう聞こえなかったという。その後、親戚は国立病院に搬送されたが、「とくに怪我もないので帰って下さい」と言われた。でも、帰る家などどこにもなかった。「せんたくネット」が提唱した洗たくボランティアにはいって動いている家族がいる。

宮城の女性が語る被災体験 2_c0166264_212274.jpgノルウェーを学ぶ会の木村さちこは、大地震の時歯医者の診療台にいた。すぐ家に帰った。アルツハイマー型認知症で入院中の夫の病院の食事が悲惨だった。ある日など11時と4時の2食だと言われた。1週間したら、みるみる痩せてきたのがわかった。しかし、この状態は約1か月続いた。見舞いに行ったら、だいぶいなくなっていた。市役所に何とかしてほしいと要望したが「そこまで手が回らない」との返事だった。未曾有の危機には違いないが、北海油田の事故後、危機管理システムを構築したノルウェーで、こうした事故が起きたらどうなのか、ノルウェーの話を聞いてみたいと言った。

「避難所になった時すぐ町づくり推進課に電話して、ろうそくの用意を依頼した。ろうそくの火をたやさないように、交代でろうそくの番をした」のは市民センター職員。次々に避難してくる人たちの受け入れ、受付のためまったく休めなかった。

震度7を観測した栗原市の職員は、「あ、死ぬんだと思った」と言う。いまだに市役所はゴチャゴチャで日々片付けに追われている。明朝も7時から引っ越しの支援がある。


以上、宮城の女性たちが語る北東北大震災のいったんである。

テレビでは、支援する側は男性が圧倒的に多く、支援される側は圧倒的に高齢女性が多いように見えた。しかし職場で、避難所で、地域で、被災現場で……女性たちは必死に働きつづけていた。

(敬称略)

宮城の女性が語る被害体験 1
http://frihet.exblog.jp/16401603/
# by bekokuma321 | 2011-05-31 01:51 | 紛争・大災害