2025年 07月 14日
楠瀬喜多の評伝小説『天までのぼれ』を読んで by 木村昭子
「民権婆さん」という言葉を耳にしたことのある人は多いだろう。被布(ひふ)を着て、頭巾のようなものを被って、ちんまりと座っているお婆さんの写真を見たことのある人もいるのではないか。
お婆さんの名は楠瀬喜多。では、彼女がなぜ「民権婆さん」なのか。詳しく知る人は多くないと思う。
楠瀬喜多は、江戸時代に生まれた。土佐の高知に自由民権運動が芽生え始めた明治の初め、自分は戸主であり、税金を払っているのだから、女でも選挙人になる資格はあるはず、と県令(知事)にあてて抗議文を提出し、女性参政権を主張した女性である。
彼女こそ、日本で初めて、いや、もしかしたら世界で初めて、お上に対して、「女性にも参政権を」と要請した女性なのである。
このたび「民権ばあさん」こと楠瀬喜多の生涯を描いた評伝小説『天までのぼれ』(中脇初枝、ポプラ社)が刊行された。帯には、こう記されている。
「坂本龍馬、板垣退助らが活躍した時代、高知に楠瀬喜多という女性がいた」
「投票できなければ、税金は払わない。初めて行われた選挙で投票を拒まれ、喜多は税を払うのを止めた。『わたしらおなごは、いつまで引っ込んでおらんといかんがでしょうか』」
「女も住むこの国のことを 女抜きで決めないでほしい」
女性の人権、主権者意識、参政権の主張がこれほど端的に言い表された言葉が他にあるだろうか! 私の心にまっすぐ突き刺さった。
著者中脇初枝は、喜多の幼少期、壮年期、高齢期にわたってその思想を、信念を、活動を膨大な資料をもとに調査研究し、喜多の生き方を魅力的に活写している。
高知の豊かな商家に生まれ育った喜多は、土佐弁でいう「はちきん」だった。自分の意志を持った利発な子どもで、手習い塾では、読み書き算術もよくでき、四書五経も読み解く力があったという。
その同じ塾で机を並べたのが後の板垣退助だった。退助は読み書きが不得手だったという。その退助に、付き人・實(後に喜多の夫になる)のたっての願いで、喜多が手ほどきすることになった。以来退助と喜多の交流は生涯絶えることなくつづき、退助は、女の喜多を同志と言って憚らなかったという。
喜多も退助を敬愛し、退助たちの民権運動の演説を欠かさず聴き、自由と権利の意識を高め、女性の政治参画への思いを強くしていく。喜多は夫の死後、戸主として納税の義務を果たしているにも拘らず、投票の権利が無いことの不条理を「納税ノ儀二付御指令願ノ事」と題して県庁に持って行った。時は明治11年。今から150年以上前のことである。このような彼女の行動が「民権婆さん」と呼ばれた所以だった。
喜多は民権活動家であり、篤志家だった。生家の家業を扶け、退助を慕って集まる若い民権活動家達を自宅に下宿させて世話をし、金銭の面倒も見、育院という施設で孤児たちの世話をし、学校に行けない子どもを私費で学校に通わせ、娘を妾に売ろうとする非道な父親から娘を救って師範学校に通わせたり・・・常に人のために私財を惜しみなく投じ、晩年には家を売るほど貧乏になってしまった。
なにより喜多の女性参政権への思いは決して衰えることなく、治安警察法改正の請願の議事が国会で審議されるたびに、70歳を超えてなお高知から船に乗り国会の傍聴に通ったという。
イギリスではついに女性の参政権が認められた。その時、喜多は85歳。喜多が生きている間に日本の女性参政権は実現しなかった。どれだけ悔しかったことか。
最後に、女性議員を増やす市民団体「全国フェミニスト議員連盟」創設者の三井マリ子さんは、私の友人でもあるが、楠瀬喜多の大ファン。楠瀬喜多を広く顕彰するために、「お婆さんの喜多ではなく、若くて血気盛んなころの喜多を女性彫像家の手でよみがえらせたい」とかねてから言っていた。三井さんは数年前、楠瀬喜多の墓参に行った。細い山道を、雑草をかきわけてたどり着いた楠瀬喜多の墓は荒れ果てていた。草むしりをしながら、「誰もここまで来ないのではないか」と、さらに思いを強くしたらしい。この著書の刊行を機に、楠瀬喜多の魅力が知られて、その機運が広がることを私も願っている。
木村昭子(こうち男女共同参画ポレール幹事)


