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核燃再処理工場の村を訪ねて-2-「グリーナムコモンから六ヶ所村へ」



●六ヶ所村再処理工場は30年以上も工事中

菊川慶子さんは、小さな声で私にこう言った。


「六ヶ所村の再処理工場はできていません。でも使用済み核燃料は運ばれてきて貯蔵されています」


六ヶ所村再処理工場は1993年に着工した。それから30年。トラブルにつぐトラブルで、まだ工事は終わっていないという。NHKは、「2027年度中に完成予定」と報道している。


再処理というとリサイクルみたいだが、ここでの「ブツ」は原発で発電を終えた核燃料で、危険極まりない「死の灰」が含まれる。その使用済み核燃料を運び込み、複雑な工程を経て猛毒のプルトニウムやウランを取り出す。


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▲国道338号線は別名「原子力街道」(鎌田慧)。数多くの核燃関連施設が集中する(2025/3/10)



1991年 東京、千葉、青森

1991年、東京都議だった私は、天然六フッ化ウランが大井ふ頭に陸揚げされて、再処理工場に輸送される際の危機対策について、議会で質問した。女性差別撤廃に忙しかった私だが、反原発・反核燃の危険性を訴える友人から核燃再処理の問題を教えられ、質問に臨んだ。チェルノブイリ原発事故(1986年)以来、女性主体の反原発運動や、エコフェミニズム情報が海外から届いていたことも私を後押しした。


一方、菊川さんは、千葉県松戸市にいた。チェルノブイリ事故の恐ろしさを勉強していくうちに「生まれ育った六ヶ所村で進んでいる核燃施設のことも」知るようになった。菊川さんは、知れば知るほど「故郷の放射能汚染を止めなければ」という強い義務感にかられていき、ついに19903月、故郷六ヶ所村にUターンした。


そのころ、青森はどうだったか。『六ヶ所村の記録:核燃料サイクル基地の素顔』(鎌田慧、講談社、1997)によると、19912月に青森県知事選があり、核燃再処理賛成派の北村正弥が大差で4選。北村候補の選挙応援には「田名部匡省、大島理森、海部首相、小沢幹事長、橋本蔵相、山東科学技術庁長官、加藤六月、三塚博、アントニオ猪木」がはせ参じた。自民党は票の獲得に「青森県財界、農漁業団体はおろか、保育園のはてまで締めつけいた」とも記されている。その2か月後の青森県議選でも、自民は圧勝。


菊川さんが千葉から六ヶ所村にUターンしてきたのは、このように、核燃反対派は賛成派と互角に選挙戦を闘えなくなってきた頃だった。


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▲長い闘いのあとを感じさせる反核燃運動の旗。簡易宿泊所に掲げられていた(2025/3/9)


●女たちのキャンプ

私は「菊川さん、長年、反核燃運動をしてきて、なにが最も心に残ってますか」と聞いた。当時を思い出したくないのか、答えたくないように見えた。少し間を置いて「女たちのキャンプですね」と言った。「あら、グリーナムコモンの女のキャンプと同じね」とつぶやくと、「そう、そう」と少し明るい声が返ってきた。


イギリスの小さな町グリーナムコモン。ニューヨークで暮らしていた1980年代初め、私は、友人宅で、イギリスからアメリカに帰国したばかりの修道女が「グリーナムコモンの平和運動のすばらしさ」を話すのを聞いて興奮した。熱く語る彼女の姿は覚えていても詳しい内容は忘れたので、ドキュメンタリ動画『核ミサイルを拒んだ女たち 証言 グリーナムコモンの19年』をもとにまとめる。


1981年のある日、グリーナムコモンの米空軍基地に核ミサイルが配備されるという小さな記事が新聞に載った。降ってわいたような大事件だった。ところが議会での議論もなく決定もしてなかった。決めたのはNATOだった。


1981年グリーンナムコモン、1991年六ヶ所村

怒った女たちは、核ミサイル配備計画を多くの人に知らせねば、と決意。「反核兵器のため、北欧の女たちがコペンハーゲンからパリまで行進した」というニュースをヒントに、女たちだけで、米軍基地傍にキャンプを張って抵抗運動を始めた。まだ家庭も職場も社会運動も男中心の時代だった。だからこそ女性が主人公の運動スタイルは新鮮で目をひいた。


そしてついに女性たち3万人の連帯で、米軍基地を取り囲む「基地を抱きしめよう」運動を成功させた。最終的にグリーナムコモン米軍基地から核ミサイルは追い払われ、基地は公園に指定された。


世界の平和運動史に燦然と輝く「グリーナムコモンの女のキャンプ」は、1981年から2000年まで続いた。菊川さんたちが、日本版「女のキャンプ」を決行したのは、その中間年の19919月だった。


天然六フッ化ウランの乗せた輸送車が、初めて六ヶ所村核燃再処理工場に搬入される。それを知った女たちは、全国から六ヶ所村に集まった。核燃再処理工場の前を走る国道脇に陣取って、輸送車を阻止するため、道路に寝転がってダイ・インをするなど抗議運動は1か月つづいた。


「私も歌を歌ったりしましたね。でも、まだ小学生の子どももいたので、私は家に戻って寝て翌日シット・インに加わるという日々でした。全国から来た皆さんに食べ物や飲み物を差し入れたりもしました」と菊川さんは謙遜する。


●情報誌発行、「花とハーブの里」オープン、牛舎を宿泊所に改造

菊川さんは多くを語らないが、彼女の活動は目を見張る。家族を説得して六ヶ所村に移住しただけでも大変なことだ。夫はしばらくして松戸に戻ったらしいが、松戸とは打って変わった不便な土地での新生活のあれやこれや、それに子どもたちの世話など、どれだけ苦労したことだろう。


そんな中、199012月に、反対運動の情報誌『うつぎ』を創刊。取材、編集、印刷、配布作業を一人でこなした。さらに1993年、自宅の近くの農園「花とハーブの里」をオープン。毎年5月に「チューリップまつり」を開いた。加えて、反対運動にやってくる人たちの泊まる場所がないので、空いていた牛舎を改造して簡易宿泊所をつくった。私も39日、そこに泊まったが、夏向きの建付けのうえ暖房がなくて寒がりの私にはこたえた。



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▲スニーカーだった私に長靴を探して持ってきた菊川さん。後ろが簡易宿泊所(2025/3/9)



(つづく)



by bekokuma321 | 2025-04-01 15:43 | 日本