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さらば、ビンちゃん!「Xの会」と「ファイトバックの会」

さらば、ビンちゃん!「Xの会」――という名の石原敏さんを偲ぶ会が豊中市で開かれた。2024年622日のことだった。


石原さんのライフワーク「狭山差別裁判糾弾!石川一雄再審無罪実現!」をともに闘った仲間たちを中心に80人以上集まったそうだ。


        ▲在りし日の石原敏さんの写真が表紙をかざる「Xの会」冊子


昨日、参加した豊中市の友人から手紙を受け取るまで、私は、石原敏さんが闘病中だったことも、3月に亡くなったことも知らなかった。


石原敏さんとは、和田明子さん経営の喫茶「フリーク」で出あった。口数の多い人ではなかった。でも、眼鏡の奥の優しい目で、ときどきニコッと笑った。


話は20年前にさかのぼる。全国公募で大阪府豊中市の「すてっぷ」初代館長に選任された私は、突如、上から降ってきた「組織強化」という名の、首切り策によって職場を追われた。「すてっぷ」は、男女共同参画社会基本法を広く浸透させるための地域の拠点としてつくられた、豊中市の男女平等を進めるセンターだ。


「少なくとも4年は頑張ってほしい」と、言われていた私は、誠実に仕事を続けていた。それが突然! しかも、同じ頃、私を貶める誹謗中傷が噂やネットで広まるなど不穏な空気が漂うにようになった。


理不尽だった。私は、宮地光子弁護士や寺沢勝子弁護士などの力を借りて大阪地裁に提訴した。


裁判は7年かかった。地裁で敗訴し、高裁で逆転勝訴。最高裁で勝訴が決まった。


豊中市が、私(館長)に何ら情報を与えずに新館長探しに奔走したのは「人格権の侵害である」と、判決は明快だった。その背景には、フェミニズムを毛嫌いする右翼勢力(バックラッシュ)ーー政治家やその周辺の自称市民ーーによる行政への組織的・継続的な圧力があった。裁判長は、私の言い分をほぼすべて認めた。


そこに至るまでの過程で、豊中市の幹部と右翼勢力とのつながりを教えてくれたのが、石原さんだった。全く知らなかった豊中の歴史だった。どれだけ多くの貴重な情報を授けていただいたことか。感謝しても感謝しても感謝しきれない。


裁判の勝利は、「ファイトバックの会」(代表上田美江、副代表木村民子)という応援団に集った800人以上もの人たちのおかげだ。その大きな支援の輪は、石原敏さんを中心とした反差別・反権力の市民運動が豊中市に根づいていたからにほかならない、と思う。


石原さんは、自らも裁判をしていた。私の勝訴が決まったとき、石原さんは、私の裁判の支援をしてきた豊中市の友人たちに「これまで豊中市に勝ったことはなかった!三井裁判が初めてだ。うれしい!」と花かごにはいったお花をプレゼントしたそうだ。実は、私は石原さんからベストを贈られた。なんという温かい気配りだろう。


石原敏さんは、裁判の傍聴にも、ほぼ毎回来てくれた。それだけではない。大阪高裁の裁判長に向けて、自ら陳述書を出して、私の勝利に一役買ってくれた。すでに公になっている文書だが、下に再掲する。心からの感謝をこめて。



===============  ビンちゃんの 陳述書  ==================


2007年12月8日                          石原 敏(元豊中市職員)

 

元豊中市職員として、また、学校における日の丸・君が代の強制に反対をしてきた者として、三井マリ子さんの雇止めの背後にある「右翼」勢力の動きに関心を持ちながら本訴訟を傍聴してきました。その立場から陳述します。


ジェンダーバッシングにのっかった、原告排除については、判決文43Pから46Pに列記されているだけでも、いかにひどいものであったかがわかるというものです。


被告豊中市は、日の丸・君が代をめぐる「右翼」の攻撃について、教育委員会を通して、また豊中市役所周辺を音量を大きくしてゆっくりと流す街宣車活動を通して、よく知っているはずです。私自身も、1997年末から1998年ごろにかけて、何回か豊中市役所周辺での街宣車活動を直接見聞きしています。


特に1997年12月から2月を はじめとする日本皇政社による申し入れの連続で、豊中市教育長自らが日本皇政社代表の細田政一(日本民族行動会議議長)らと面会しています。そのことからも、豊中市は「右翼」のメンバーやその動きを十二分に知っていたのです。


さらにいえば、現市長(浅利敬一郎)は教育長時代に、卒業式の日の丸・君が代をめぐって、当該校の校長やPTA会長など学校関係者さえ望まなかった、教師を「卒業式を妨害した」として豊中警察に個人的判断で刑事告発した人物です(後、その教師は不起訴。添付書類1、2*1)。その背後には、北川悟司議員(当時。以下同じ)などによる、議会での日の丸・君が代に異議を持つ教職員への強い対処を求める発言があったのです。北川議員は、1999年ごろから教科書採択問題や、学校における「国旗掲揚国歌斉唱」の徹底を議会で発言し、産経新聞がそれを何度も報道していました(添付書類3*2


北川悟司議員が属する日本会議と根を同じくする「右翼」のターゲットは、教育委員会に日の丸・君が代強制を求める行動から、2000年代には、ジェンダーバッシングに移っていたのです。それに応えた北川議員をはじめとする日本会議系議員達による攻勢が、豊中市議会ではじまりました。北川議員は、自分の属する常任委員会を文教から総務に移し、ジェンダーバッシング発言を続けたのです。


2002年3月、豊中市女性問題審議会の答申が出て、豊中市は、男女共同参画推進条例制定へと動き出しました。そこで、02年7月の市議会本会議で北川議員が、これらの男女平等推進の動きにストップをかけるべく、山口県宇部市の例を出したのです。


そして、すてっぷに対しては、窓口での嫌がらせ、名を名乗らない人びとによる電話による嫌がらせが続きます。嫌がらせしていた「教育オンブッド豊中」のホームページには、これらの行動が日誌風に記されています(添付書類4,5*3 )。教育オンブッド豊中のホーページ作成者は増木重夫氏で、「教育再生地方議員百人と市民の会」の事務局です。こうした嫌がらせについては、市から派遣された山本事務局長が「完全に右翼の活動でしょうね」と原告に語っているとおりです(甲158)。


判決文43P~48Pで認めているバッシング活動はごく一部なのです。


2003年2月8日、すてっぷで、国連人口基金東京事務所長池上清子さんを迎えて国際セミナーがおこなわれています。主催は、(財)とよなか国際交流協会、(財)とよなか男女共同参画推進財団、世界人権宣言豊中連絡会議の3者、タイトルは「たのしもう・ふかめよう『多民族・多文化共生社会』」です。


セミナーで配布された資料には、すてっぷについて、「性別による差別をなくし『女(男)だからこうあるべき』という考えに生き方をしばられずに女性も男性も自分らしく生き生きと暮らせる社会の実現をめざして~」とあります。同時に配布された年表には、2000年、すてっぷ開館、2002年女性問題審議会答申、2003年男女共同参画推進条例制定予定と明記されています。


このセミナーは、翌月の3月市議会で男女共同参画推進条例を制定することを確実なこととして開催されていたことは出席した人たちの印象からも明らかです。


しかしながら、判決文50Pには、「しかし、被告豊中市としては、そのころから条例上程に対し、さまざまな意見や要望が出されていることや、男女共同参画に関する考え方、必要性について、十分な議会説明が出来ていないと感じていた」とあります。そして、「しかも4月には選挙が~」と続きます。


空々しい言い分です。答申から1年、北川議員の質問から8か月がたっています。準備ができていなかった、とは到底考えられません。市議会議員選挙も統一地方選挙であり、みなわかりきっている日程です。真実は、突然、条例上程が政治的圧力によって阻止されたのです。


それが真実であることは、甲15にある日本会議のホームページへの2003年2月29日付け投稿が示しています。以下です。


 「豊中市の北川悟司議員からの情報によると、豊中市男女共同参画条例案は3月議会では上程が見送りになったということです」


 「心あるしっかりした議員の力と首長の決断があれば、まがい物の条例の正体は見破られ、阻止することができる証明」


                          以上  (添付書類や脚注は省略:FEM-NEWS)



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        ▲地裁敗訴に怒る「ファイトバックの会」。控訴審は全面勝訴だった


豊中「フリーク」25年の歴史に幕 : FEM-NEWS (exblog.jp)

スウェーデン 反右翼デモの仕掛人は17歳少女 : FEM-NEWS (exblog.jp)


by bekokuma321 | 2024-09-20 16:10 | 日本