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「わたしの曽おばあちゃん」(初の女性代議士和崎ハル)

「わたしの曽おばあちゃん」(初の女性代議士和崎ハル)_c0166264_18344387.jpg10月17日、高橋みどりさん(左)は「秋田県大曲市人権擁護委員研修会」で講演をした。題して「私の曽おばあちゃん」。

高橋みどりさんは、和崎ハルのひ孫にあたる。和崎ハルは、女性が初めて参政権を行使した1946年衆院選で、秋田選挙区から立候補して、41人中トップ当選した女性解放運動家である。

先日、秋田で高橋みどりさんに会った。大曲講演にあたって準備したメモをもとにしながら、「和崎ハル伝」を語って下さった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 私の曽おばあちゃん ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

和崎ハルさんのひ孫にあたる私から見た、ハルさんについてお話しします。

ハルさんの娘である私の祖母「高橋みさを」は、ハルさんの業績をそんなに多く私に話すことはありませんでした。でも、折にふれて話題に上ることもありました。

とくに思い出深いのは、秋田市金照寺山に建てられた和崎ハルの記念碑の除幕式です。1951年(昭和26)11月でした。記念の石碑には市川房枝さんの手になる「秋田女性の母 和崎ハルさん」が、刻まれています。

「わたしの曽おばあちゃん」(初の女性代議士和崎ハル)_c0166264_18383367.jpg

家の奥から見つかったアルバムがあります。そのなかに記念碑の除幕式に参加した和崎ハルさんと私が写っている写真がありました(上)。

前列に4人が座っていて、右から2人目が和崎ハルさんです。黒い紋付の和服を着ています。当時は最高の盛装だったと思われます。私の祖母「高橋みさを」(ハルさんの娘)は後列の右から2人目に立っています。右端の女性が私の母です。その母親に抱かれるように長椅子の上に立っているのが私です。3歳か4歳だったと思います。祖母・高橋みさをから聞いた話もまじりあって、私の記憶にこの時の様子がうっすらと残っています。

高橋みさをは 女性運動に熱心な人でした。 地域婦人会、農協婦人部のリーダーを経て、1965年(昭和40)、稲川町議会議員に選出されました。「紅一点」でした。亡くなる1970年(昭和45)まで議員を務めました。その娘である私の母は、農業の傍ら民生委員を長く勤め、地域の福祉活動にかかわっていました。

私も、社協事務局長、民生委員、介護施設長役員などを長く務めてきました。曽祖母、祖母、母から何か大事なものを、私も受け継いできたように思うことがあります。その大事なものとは、いかなる人間も持っている人としての権利を尊重しなければならないという「人権思想」です。私はそれを私なりに後世に伝えていきたいと考えています。

和崎ハルさんが歩んだ道を私なりに紹介します。彼女は1885年(明治18)秋田市に生まれました。近くのキリスト教の教会系の学校に入学し、そこでいわゆるキリスト教に基づく博愛の精神を学んだそうです。

当時の時代状況からして、いろんな社会的圧力や社会通念があったはずですが、それにもめげず、ハルさんは平等思想を貫きとおした人のように思われます。その原点は、幼いころに出会ったキリスト教の博愛精神にあるのではないかと私は考えます。

ハルさんは、結婚後、愛知県豊橋市で5人の子ども(その1人が私の祖母)を産み育てますが、夫が亡くなり、子どもと義母を連れて故郷の秋田に戻ってきました。秋田でやったことは文献などに多く書かれていてご存知の方も多いでしょう。

簡単にまとめると、まず日本キリスト教婦人矯風会秋田支部に参加して、廃娼運動(公娼制廃止を求めて議会に運動する)に熱心にかかわります。生活のために、上京して洋髪技術を学び、秋田市内で美容院を開きます。洋髪の美容師秋田県第1号だそうです。美容院に来る芸妓の女性たちの悲惨な身の上話を聞くようになります。当時、貧農に生まれた女性たちは、借金のかたに娼妓に売られていました。社会の底辺で苦しむ彼女たちの人生を何とかしなくてはと、ハルさんは、裁縫、識字、作法などを教える芸妓学校「のぞみの会」を開校します。日本でもまれなこの学校は12年間も続いたそうです。

廃娼運動に拍車がかかったことは想像にかたくありません。さらに廃娼運動から、女性参政権を求める運動にのめりこむには時間はかかりませんでした。和崎ハルさんは、日本キリスト教婦人矯風会秋田支部長の早川カイさんらとともに、「秋田婦人同盟」、「婦選獲得同盟秋田支部」を創設します。
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同じころ、ハルさんは、秋田魁新報の「女性相談瀾」を担当するようになります。そして1932年(昭和7)、市川房枝さんらを招いて秋田市で東北婦選大会を開催します(上:注1)。和崎ハルさんは「婦選獲得同盟秋田支部長」でした。

ハルさんは、大阪にいる息子と同居するため秋田を離れますが、戦況が悪化し、横手に疎開します。ハルさんの娘が「伊藤永之介」(作家)と結婚して横手に住んでいたためです(注2)。

1945年、敗戦をハルさんは横手で迎えます。その翌1946年、日本女性は初めて参政権を行使します。その衆院選にハルさんは立候補します(注3)。秋田県内をもんぺ姿で演説して回ったと言われています。そして10万票以上の得票で、秋田県初の女性代議士となります。

翌1947年の4月の総選挙にも再び立候補しますが、再選はなりませんでした(注4)。

1952年(昭和27)、ハルさんは、息子の住む大阪で亡くなりました。秋田市に記念碑が建てられてからわずか1年後のことでした。

(構成、文責:FEM-NEWS)

【注1】2016年女性参政権行使70周年を記念する絵葉書を作成した。和崎ハルの功績や秋田の「婦選運動」(女性参政権獲得運動)を広める一助にという趣旨だった。
【注2】横手市内の伊藤永之介の住んでいた跡には立て看板が立てられて、伊藤の業績が説明されている。しかし同じところに住んでいた和崎ハルの名はない。
【注3】1946年の衆院選で秋田は全県1区だった。横手に住んでいた和崎ハルは横手から秋田県の衆議院議員に立候補した。しかし横手から立候補したことを知る人はおらず、筆者も数年前初めて横手在住だった事実を知った。
【注4】1946年の衆院選における選挙区の定数は複数だった。1人しか当選しない「小選挙区制」ではなく、いわゆる「大選挙区制」だった。そのうえ、投票用紙に複数の名前を書ける「連記制」だった。そのため「1人は女性を」と思う人が多かったらしく多くの女性が当選した。しかし、翌1947年、全県1区だった秋田選挙区は2つに分けられた(秋田は1区、横手は2区)。また連記制も廃止された。和崎は1947年秋田に移って挑戦するも落選だった。めげずに1949年3たび立候補。またしても落選した。その挑戦魂! 女性立候補者と当選者は、1946年79人⇒39人、1947年85人⇒15人、1949年44人⇒ 12人。 女性当選者が激減した背景には連記制廃止など選挙制度の変化があると考えられる。

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【2017年11月1日更新】
by bekokuma321 | 2017-10-30 19:35 | 秋田