2015年 04月 28日
自分らしく生き抜いた杉原妙子さん
さきほど、葬儀に参列した藤美津子さんと岡橋時子さんが知らせてくれた。
杉原妙子さんは、大阪市立小学校の教員を長くつとめた。男女平等の教育に熱心だった。『男女平等教育のための学習プログラム――自分らしく生きる力を子どもたちに』(明石書店、2008)を刊行した。
杉原さんは、「館長雇止めバックラッシュ裁判」において、大阪高裁に「陳述書」を提出した。市民とのパートナーシップで男女平等推進をするとした行政は、市民を利用しただけだったと、痛烈に行政を批判している。
杉原さんは、豊中駅前にあった喫茶「フリーク」に集う一人でもあった。
女性センターができるという話が持ち上がってからは、「フリーク」に集う女たちを中心に、豊中市民たちはその声をセンターに反映させようと準備に没頭した。しかし、決定する段になって、豊中市の行政職員は、杉原さんたちの企画案をズタズタにしてしまった(「陳述書」)。
豊中市は、新しい女性センターの館長を全国公募した。私がそれに応募してセンターの初代館長となったのは、こうした事件の後だった。女性問題に取り組んできた杉原さんのような市民たちが行政に絶望した経緯は全く知らなかった。
杉原さんの「陳述書」は、こう書いている。私が赴任した頃、絶望した市民たちは「もう豊中市とパートナーシップなど組めないとあきらめていた」。しかし、「再度すてっぷ(豊中市男女共同参画センター)に関わりながら豊中市の男女平等を進めようと」と、その重い腰をあげようとしていた。
かすかに残っていた志を奮い立たせた市民たち。その力を借りながら、私は職員の知恵を集めて、すてっぷを男女平等推進の拠点にしようとした。数年後、小さな花が開き始めた。
そんな矢先だった。豊中市議会のバックラッシュ勢力が、すてっぷを捻じ曲げようと画策し実行した。そんなバックラッシュ勢力の圧力に豊中市行政幹部は屈服。手始めに私を首にした。私は豊中市を提訴。最高栽で勝訴した。
今、杉原妙子筆の「陳述書」を読み返しながら、彼女の男女平等への熱意をあらためて感じている。
杉原妙子さん、本当にありがとうございました。安らかにお休みください。
■2007年12月2日杉原妙子 「陳述書」
■世界を変えるのは
■非正規雇用労働者として働いたフェミニスト
■北村三津子「私は存在する。」
■浅倉むつ子「男女共同参画社会実現のための訴訟でした」
■バックラッシュに全国からNOを:「すてっぷ」館長が標的に
【写真:在りし日の杉原妙子さん。2012年秋「歴史を拓くはじめの家」(もろさわようこ主宰)にて。藤美津子提供】