赤松良子元文部相

c0166264_9442347.jpg赤松良子さんの「証言そのとき:男女平等を求めて」を楽しみに読んでいる。岡林佐和記者の手になる朝日の連載で、10月12日は4回目だった。

2012年暮れ、私は衆院選に立候補して落選した。突然の秋田移住、解散、衆院選だったためか、いまだに「なぜ出たの」と不思議がる人がいる。

最大の理由は、断っても断っても、「盤石の態勢でお支えします」と民主党秋田県から懇願されたからだ。でも、他にもいくつかわけがある。今、考えると赤松良子さんの本の影響もあった。

秋田で衆院選に出るということは、秋田へ移住することだった。秋田で新たな生活をすることを思い描くと、とても踏み切れなかった。生まれ故郷とはいえ、40年も離れていた土地に移り住んで政治活動をするなんて余りにも無謀ではないか。料理好きの連れ合いと離れて住むのも不便この上ない。「秋田でたくさんの人が待っています」と何度言われても、さまざまな理由をつけては断わった。

そのころ、私は、赤松良子著『均等法をつくる』(勁草書房)、『志は高く』(有斐閣)などを読んでいた。2012年7月、ノルウェーに滞在していた私に、国際女性の地位協会(会長山下泰子)から、「2012度の赤松良子賞に決まったので受けていただけるか」という知らせが、連れ合い経由で届いたからだった。(以下、敬称略)

赤松良子は、労働省婦人少年局長、文部大臣などを歴任した日本屈指の指導的女性の1人である。ノルウェーから帰国した私は、返事をする前に、もう少し赤松良子の考えを知りたいと思って、本棚から彼女の本を引っ張り出して読んだ。

『均等法をつくる』には、男女雇用機会均等法案の立法担当のトップ赤松良子しか書けない労働省内のやり取りが、ルポされていた。こんなくだりに苦笑した。

「もっと激しい立場をとる『国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会』や『私たちの男女平等法をつくる会』などがあった。これらのグループには若い元気のよい論客が多く、会長や代表もおかず、自由に意見をいう新しいスタイルで運動していた」

激しい2つの団体こそ、私が活動していた団体だった。ともに、弁護士中島通子を先頭にした女性解放グループで、働く女性の声が反映していない法案には断固反対という立場だった。

当時、私は30歳そこそこ。しかもフルブライト奨学金を得てのアメリカ留学から帰国したばかりだった。ワシントンのEEOC(雇用機会均等委員会)委員長にインタビューして、その権限や機能を週刊誌『朝日ジャーナル』に発表したり、対案を書いた本を出版したり(亜紀書房『働く女が未来を拓く』)、先進国並みに罰則つきの法案にしなくてはと、さまざまな運動を続けた。ハンストこそしなかったが、職場から年休をとってはハンスト中の仲間を激励した。

批判の刃は、女性を男性と対等に扱おうとしない経営者側にだけでなく、法案を企業寄りにしようとしている労働省に向けられた。マスコミへの投書、集会の開催、抗議デモ、国会請願など・・・私は、毎日のように仲間たちと労働省への批判運動を続けた。

そのあたりを、赤松は「批判や糾弾に堪えて、火中の栗を拾うしかない」と書いていた。そして、雇用の男女平等をすすめる国内法なしには女性差別撤廃条約を批准できないから、妥協してでも成立させたかった、と。

女性差別撤廃条約の批准運動には、私も入れ込んだ。条約の中身を1人でも多くの人に知ってもらおうと、学習会を開き、ビラを作って配布したりした。同じころ、赤松も、女性差別撤廃条約批准が悲願だったのだ。

『均等法をつくる』には、私が候補だという赤松良子賞の誕生経緯も書かれていた。赤松良子賞は、国際女性の地位協会の活動で、その国際女性の地位協会は、国連の世界女性会議で開かれたケニアのナイロビにおけるワークショップから生まれたらしい。目的は、日本津々浦々に女子差別撤廃条約を広めるためだった。

女子差別撤廃条約こそ、日本を男女平等社会にするための最大の武器だ、と私は思っていた。スマホを使うようになるまで、私は条文をすぐ示せるように縮小版をつくって手帳にはさんで常に持ち歩いていたものだ。

女子差別撤廃条批准の陰に赤松良子の獅子奮迅の頑張があったことをあらためて知って、その赤松が創設した、女性差別撤廃条約の精神を体現する活動をしてきた人に授与する賞の候補に自分がなったことを誇らしく思えてきた。私は、「赤松良子賞をお受けします」と、返事をした。

同時に、こういう賞を受賞したからには、もっと女性差別撤廃にがんばらなくてはいけないという気持がわいてきた。

一方、民主党からの私への勧誘は、あれだけ明確に辞退しても、まだ続いていた。「別の方を探してほしい」とも言った。でも、当時の民主党には、気の毒なほど否定的ニュースばかりがつきまとっていて、民主党のレッテルをはって選挙に出ようなどという人は出てこないようだった。

ベッドに置いていた赤松良子の本を、まためくった。57歳でウルグァイ大使となって南米に単身赴任した時のエピソードに出会った。

赤松は、最初、「地球儀で探したら、なんと日本から対極の一番遠いところにある小さな国」ウルグァイに、「いつ退官してもおかしくない年齢になって、今さら、そんな遠い見知らぬ土地へ行かなくてもよいのではないか」と思ったと書いている。

赤松は最終的にウルグアイ行きを承諾する。当時、高橋展子大使がデンマークから帰って以来、日本には女性の大使がゼロだったからだと彼女は言う。

秋田に移住してやっていけるだろうかという私の悩みは、赤松良子のウルグァイ転任話を読んだら、小さすぎる悩みだと思えてきた。赤松は、地球の裏側への単身赴任。こちらは東京から新幹線3時間で行ける国内への単身赴任にすぎなかった。

しばらくして私は、東京都の倍以上もある選挙区で政治活動をする決意を固めて、秋田に向かった。

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▲1984年のハンスト写真が掲載された2014年12月付の新聞記事(友人が送ってくれた)。左端「なくせ性差別」というメスマークの背後に三井マリ子の横顔が小さく写っている。

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by bekokuma321 | 2015-10-15 21:05 | 秋田

赤松良子賞を受賞した。

赤松良子賞の授与は、国際女性の地位協会の活動のひとつである。

その国際女性の地位協会は、国連の世界女性会議で開かれたケニアのナイロビにおける「女子差別撤廃条約を知ろう」というワークショップから生まれたのだという。日本津々浦々に女子差別撤廃条約を広めるために・・・。

女子差別撤廃条約こそ男女平等社会をつくってゆくための最大の武器だ、と私は思ってきた。今もその思いは変わらない。

いつでもどこでも、正確な条文を示せるようにと、縮小版をつくって手帳の表紙裏にはさんで、長年、持ち歩いていた。スマホを使い始めてからはやめた。

その女子差別撤廃条約を日本政府が批准するまでの道は平たんではなかった。その陰に、労働省のトップにいた赤松良子の獅子奮迅の頑張りがあったことを、『均等法をつくる』(赤松良子、勁草書房)で知った。

その赤松が、国際女性の地位協会に創設したのが、赤松良子賞だ。女性差別撤廃条約の精神を体現する活動をしてきた人に授与される。

2012年11月25日、私は授賞式と記念シンポジウムに出席して、賞状(↓)と副賞を受けとった。

私の受賞理由は、鳥居淳子審査委員長によると、クオータ制を初めて日本に紹介したことと、バックラッシュ裁判を闘って勝利したことにあるらしかった。

クオータ制は、1980年代にノルウェーで知って以来、執筆・講演で知らせてきた。さらに全国フェミニスト議員連盟の仲間たちと、国会議員や政党にロビー活動をしてきた。みな、時間がいくらあっても足りないほど忙しい議員をしながら、男女平等の世の中をと頑張ってくれた。全国フェミニスト議員連盟の彼女/彼らの連帯と友情あふれる闘いがなければ、私は、ここまでこれなかった。

バックラッシュとは、女性差別撤廃条約嫌いの反動的動きをさす。大阪府豊中市では、男女共同参画推薦センター館長だった私の首を切る勢いだった。私は解雇されたが、豊中市の女性たちは立ちあがった。裁判を支援する「ファイトバックの会」ができた。あしかけ7年、最高裁勝利までの、あの顔、この顔・・・。

赤松良子賞は、私とともに闘ったこうした人たちへの賞だ。そして、「女性差別撤廃条約、クオータ制をさらにひろめなさい」という激励だと思う。

さあ、これからが本番だ。

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▲村越まり子「三井マリ子さん赤松良子賞を受賞」AFER 2013.2.20(クリックすると拡大されます)

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by bekokuma321 | 2013-04-26 23:16 | ノルウェー