11月19日(土)、20日(日)、豊中すてっぷにて、女たちの映画祭

今年は、ポーランド、アルメニア、中国、日本の女性監督によるドキュメンタリー映画です。スクリーンからほとばしり出る女たちの力を味わってください。

19日夜は、遠いアルメニアから、マリアム・オハニャン(Mariam Ohanyan)監督が来日して講演。黒海とカスピ海の間にある国アルメニア。その文化、歴史、女たちの暮らしを語っていただきます。

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“KIN” Women’s International Film Festival
映画界の女性差別をなくすために
ついに映画産業にクオータ制
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by bekokuma321 | 2016-11-15 01:54 | その他

c0166264_13353666.jpg大阪豊中市で働いていたころ、知り合った杉原妙子さんが、4月21日亡くなった。

さきほど、葬儀に参列した藤美津子さんと岡橋時子さんが知らせてくれた。

杉原妙子さんは、大阪市立小学校の教員を長くつとめた。男女平等の教育に熱心だった。『男女平等教育のための学習プログラム――自分らしく生きる力を子どもたちに』(明石書店、2008)を刊行した。

杉原さんは、「館長雇止めバックラッシュ裁判」において、大阪高裁に「陳述書」を提出した。市民とのパートナーシップで男女平等推進をするとした行政は、市民を利用しただけだったと、痛烈に行政を批判している。

杉原さんは、豊中駅前にあった喫茶「フリーク」に集う一人でもあった。

女性センターができるという話が持ち上がってからは、「フリーク」に集う女たちを中心に、豊中市民たちはその声をセンターに反映させようと準備に没頭した。しかし、決定する段になって、豊中市の行政職員は、杉原さんたちの企画案をズタズタにしてしまった(「陳述書」)。

豊中市は、新しい女性センターの館長を全国公募した。私がそれに応募してセンターの初代館長となったのは、こうした事件の後だった。女性問題に取り組んできた杉原さんのような市民たちが行政に絶望した経緯は全く知らなかった。

c0166264_1413429.jpg杉原さんの「陳述書」は、こう書いている。私が赴任した頃、絶望した市民たちは「もう豊中市とパートナーシップなど組めないとあきらめていた」。しかし、「再度すてっぷ(豊中市男女共同参画センター)に関わりながら豊中市の男女平等を進めようと」と、その重い腰をあげようとしていた。

かすかに残っていた志を奮い立たせた市民たち。その力を借りながら、私は職員の知恵を集めて、すてっぷを男女平等推進の拠点にしようとした。数年後、小さな花が開き始めた。

そんな矢先だった。豊中市議会のバックラッシュ勢力が、すてっぷを捻じ曲げようと画策し実行した。そんなバックラッシュ勢力の圧力に豊中市行政幹部は屈服。手始めに私を首にした。私は豊中市を提訴。最高栽で勝訴した。

今、杉原妙子筆の「陳述書」を読み返しながら、彼女の男女平等への熱意をあらためて感じている。

杉原妙子さん、本当にありがとうございました。安らかにお休みください。

2007年12月2日杉原妙子 「陳述書」
世界を変えるのは
非正規雇用労働者として働いたフェミニスト
北村三津子「私は存在する。」
浅倉むつ子「男女共同参画社会実現のための訴訟でした」
バックラッシュに全国からNOを:「すてっぷ」館長が標的に

【写真:在りし日の杉原妙子さん。2012年秋「歴史を拓くはじめの家」(もろさわようこ主宰)にて。藤美津子提供】
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by bekokuma321 | 2015-04-28 13:57 | その他

女のスペース「フリーク」で出会った女たちのつながりの歴史は、30年を超える。

「フリーク」は私がやっていた喫茶店で、大阪の豊中駅前にあった。2007年に閉じるまで、約四半世紀、大勢の女たちが出入りした。

示村冬子さんはいつごろ私たちの仲間になったのか。比較的新しいと思っていたが、追悼会の準備のために写真をさがしていたら20年以上も前の写真に冬子さんの笑顔があった。

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今年の3月28日、友人のメールで示村冬子さんの訃報を知った。入院していることは知っていたが、予想もしていなかったことで、メールをくれた友人に電話をして冬子さんの最後の様子を聞いたあと、示村さんのお連れ合いと電話で話すことができた。私自身が納得するために電話をしていたような気がする。それでも信じられなかった。受け入れられなかった。そして、落ち着いてくるとむしょうに腹が立ってきた。

「若いあんたがなぜ先なのよ!順番がちがうでしょう!」

 
7月入って、わたしたちはようやく示村冬子さんの追悼会のことが考えられるようになった。冬子さんのDVDをつくるために集まって写真を選んでいるとどの写真も弾けるような笑顔ばかりだった。追悼会のタイトルの「あの笑顔をもう一度」は、すぐにきまった。

9月14日、豊中のすてっぷで追悼会を開いた。ごく内輪の人たちに知らせただけだったが、15人のおんなたちが来てくれた。

最初に示村冬子さんが「フリーク」の私たちの集りに参加したのはコーラスのグループだった。自分たちの歌のレベルには関係なく大阪ドーンセンターのオープニングイベントのステージにも立った。

その後、染のワークショップ、女性映画祭での活躍、リブ25周年のステージ作りの思い出。そして「館長雇止め・バックラッシュ裁判」(すてっぷ裁判)。裁判は、最初から最後まで支援しただけでなく、世話人までしてくれた。

思い出話はつきなかったが、一番多かった共通していた思い出は酔っぱらってかかってきた長電話。こんなに早く赴ってしまうのだったらもっときちんと話を聞いてあげればよかった、という思いも共通していた。

冬子さん、わたしたちの話は聞こえましたか。

和田 明子(豊中市民、フリークの女たちの会)

【写真:DVD「あの笑顔をもう一度」(作成ふじみつこ)の表紙より。右が示村冬子さん】

すてっぷ裁判を支えた示村さんにお別れして
北村三津子「私は存在する。
豊中「フリーク」25年の歴史に幕
館長雇止め・バックラッシュ裁判
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by bekokuma321 | 2014-09-20 07:40 | その他