2016年 09月 26日
女性解放運動の先駆者早川カイ
その1946年の選挙で日本初の女性衆議院議員になった1人は秋田の和崎ハル(1885~1952)。美容師だった。髪を結いに来る芸者さんたちの身の上話は悲惨だった。憤りを覚えた彼女は、公娼制廃止、一夫多妻廃止運動にのめりこんでいく。当然の帰結だが、参政権のなかった女性の選挙権を求めて運動に走る。
あきた文学資料館の北条常久博士の話や資料によると、秋田県において、公娼制や一夫多妻制に反対する活動の先陣をきったのは、早川カイ(1884~1969 写真)だった。早川カイは秋田市の早川眼科医の妻で、夫婦とも熱心なクリスチャンだった。1922年、矯風会秋田支部を創設し初代支部長に就任した。
翌1923年9月1日、関東大震災が起こった。
早川カイは、矯風会秋田支部や他の組織をフル動員して、布団づくりにとりかった。「ゆかたをほどいて布団皮を縫い」、それに寄付された藁をいれ、「1080枚」の布団を完成した(『火の柱――秋田婦人ホーム四十年のあゆみ』1993)。
その1080枚の布団を、早川は2人の同志とともに、蒸気機関車に乗って、秋田から上京して届けたというから、その爆発的エネルギーに圧倒される。東京で早川が見た惨状のなかの惨状は「吉原のお玉ケ池に折り重なって死んでいる娼妓の姿」だった。娼妓の出身は、山形や秋田など東北が一番多い事を知って、胸つぶれる思いだったろう。
1928年8月、今度は、秋田が大火に見舞われた。
秋田市内の遊郭地にあった家屋が180戸以上、焼失した。早川は、翌朝には現場に急行した。その惨状を目の当たりにし、遊郭で働かせられていた多くの女性・少女たちに救援の手をさしのべた。
早川のすごさは、業者とわたりあって娼妓の前借金免除の交渉に体をはったことだ。啖呵をきることもあったという。
彼女の、この勇敢さは、遊郭の復興反対活動につながっていく。1928年9月には(大火の1月後)、矯風会本部の久布白落実(くぶしろおちみ、1882-1972)を秋田に招いて、第1回公娼廃止大記念会を開催した。
早川カイは、公娼制を廃止したいという情熱を、政治問題へと発展させる。それは、秋田県会議長名で、知事あてに「公娼制廃止を求める意見書」提出となって結実した。
廃娼が決議されると、遊郭に閉じ込められていた娼妓たちは自由を求めて逃げ出した。早川は自宅を開放して、保護した。中にはこんな話もある。早川の息子の配偶者の弁だ。
「ある娘はいつも見張りされていて、自由になりたくてもなれないので、或る時こっそりと投書をした。母からの返事は本の中に旅費とともにはさんで送ってきたそうである。それには読んだら破くこと、隣の駅まで逃げてくれば東京に逃がしてやること、目印に眼帯をして、人に話しかけられても決して口をきいてはならないこと、どうしても危なくなったら、秋田市の早川眼科に逃げ込むことなど、そんな注意が書き添えてあったという」(『火の柱――秋田婦人ホーム四十年のあゆみ』1993)
続々と逃げてくる女性たち、彼女たちを追ってくる楼主たち。自宅におくだけでは危険になってきたため、近くの楢山教会の牧師館(写真上)に身を隠させたりもした。
早川が、苦界に身を沈めた女性たちが駆け込める「婦人ホーム」創設に着手するのは時間の問題だった。彼女は土地を買って建物を建設するための募金活動をスタートさせる。
1932年9月1日付け「秋田婦人ホーム建設趣意書」には、次のように書かれている。代表者は早川カイと和崎ハルだ。
「(前略)不幸な婦人収容のほか、授産、人事相談、職業の紹介、託児も致したいと存じます。それに要する経費は五千円でございますので、皆さまのご同情におすがりするわけです。秋田婦人ホーム建設発起人 代表者 早川カイ、和崎ハル」(同著)
秋田の女性解放運動は、早川カイの公娼制廃止運動から火がついた。和崎ハルが衆院選に立候補する10年以上も前のことだった。
【写真上:早川カイの写真。秋田婦人ホーム佐々木ケイ子施設長提供】
【写真中:秋田市にある秋田楢山教会。ここで矯風会の活動が行われた。現在も続けられている】
【写真下:「婦人解放運動発祥の地」の石碑。秋田婦人ホームが建てられた地(秋田市楢山地区)に、後年、設置されたもの】
【注:オスロの美術館に展示されている絵画。売春婦になる前の性病検査を待つ貧しい少女が描かれている。ノルウェー売春反対運動のきっかけとなったとされる】