1フィート運動に奔走した中村さん亡くなる

中村文子さんが逝去した。ご冥福をお祈りする。

沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長を長く務めた。6月27日、八重瀬町内の病院で亡くなった。沖縄タイムスの記事を紹介する。

■■■■

沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長を長く務めた中村文子さんが亡くなった。99歳だった。自らを「軍国教師」と呼び、その贖罪(しょくざい)から戦場へ送った教え子を思い続け、平和運動に身をささげた半生だった。

 晩年は会の顧問として運動の一線から退いていた。しかし、運動を共にしたメンバーには、二度と沖縄を戦場にしないよう戦争の悲惨さを語り継ぐ活動を続けるよう伝えていたという。

 〈語り継ぎ語り継ぐべしあの悲惨 知らざる子らにまたその子らに〉

 中村さんが自著に残した短歌に、あらためて沖縄戦を語り継ぐ強い意志を感じる。心からご冥福をお祈りし、先達の平和への思いを引き継ぐ決意を新たにしたい。

 中村さんの思いは、1フィートの会を立ち上げた初代代表でひめゆり学徒引率教師の仲宗根政善さん、2代目代表でジャーナリストの牧港篤三さんら平和運動をリードした故人と共通する。

 戦争に加担し、その結果、多くの教え子や県民を巻き込んだという責任と贖罪だ。中村さんは生前、沖縄戦で多くの人が亡くなった4~6月を「戦争の季節」と呼び、学徒隊に送った教え子が夢の中に出てくると回想している。

 「あの子たちはいつもおかっぱの髪のまま。卒業、就職、結婚の喜びも知らない」

 ただ、中村さんは夫の仕事の都合で神奈川県で終戦。沖縄戦を直接体験せず、戦後、教え子の戦場の様子を尋ね歩いたのも、戦の悲惨さを追体験する狙いだった。

    ■    ■

 教職を退き、県婦人連合会では「母たちの戦争体験」出版を主導、その後、1フィートの会に身を置いたのも必然だったのだろう。

 1984年の初回フィルム上映会で中村さんは「伝え聞いていた事実を確かなこととして、しっかりと胸に刻みつけることができた」と語っている。

 言葉や文字だけでは伝えられない映像が、戦争を知らない人や若い世代へ沖縄戦を継承する力になると確信したのではないだろうか。

 中村さんの事務局長時代、記録フィルムを集成した記録映画「沖縄戦・未来への証言」の製作・上映、英語版の完成、米国ニューヨークなどでの上映など活動を活発に広げた。

 1フィートの会の活動は評価され、中村さんも92年に県功労者、96年に那覇市政功労者、2000年沖縄タイムス賞、01年白井博子・地の塩賞などを受賞している。

    ■    ■

 中村さんは20年ほど前の県功労者表彰祝賀会で「私はどうあっても100歳まで生きて核もない、基地もない、環境破壊もない沖縄を見たい」と語っていた。中村さんの望んだ沖縄は今も実現していない。

 今年3月に1フィートの会が幕を下ろし、軍国主義の実相を知る平和運動家がまた一人去った。学徒の高齢化でひめゆり平和祈念資料館の館外講話も9月で終了する。

 残された時間は少ない。沖縄戦の実相をどう次代に継承するのか、中村さんの訃報が強く問い掛けている。


■沖縄県平和祈念資料館、ひめゆり平和祈念資料館
http://frihet.exblog.jp/16270153/
■ノルウェーを支える女性の闘いの歴史
http://frihet.exblog.jp/16265429/
■沖縄で女性・政治スクール発足
http://frihet.exblog.jp/16256296/
■思いやり予算を災害復興に
http://frihet.exblog.jp/16259488/
[PR]
by bekokuma321 | 2013-06-29 19:27 | その他