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「あるオンナ党員の半生」を読んで

「あるオンナ党員の半生」を読んで_c0166264_11123370.jpg四谷信子「あるオンナ党員の半生」(労働者運動資料室、2010)

私は四谷信子さんと6年余り、東京都議会でご一緒させていただいた。都議会の廊下を、胸をはって大股で闊歩する四谷さんの姿が今でも目に焼き付いている。

四谷さんは、男女平等問題への発言を都議会ではほとんどしなかった。ところが、ある座談会で、「神近市子さん、藤原道子さん……考えられないほどの弾圧の中を女性解放のために闘ってきた女性たちを観て、思わず涙が出た。そういう先人が果たしてきた道を、私たちはあとから歩ましてもらっている」と言った。

ちょうど4月の婦人週間(現在は女性週間)にちなんで、都議会のギャラリーで「道を拓いた女たちの肖像展」が開催されていた。四谷さんは、それを観て座談会に臨んだ。20年ほど前のことだ。

四谷さんも、女性ゆえの問題に苦しんで闘ったことがあるに違いないとは、思っていた。でも、四谷さんから直に苦労話を伺う機会はなかった。この度の本「あるオンナ党員の半生」で私はやっと、四谷さんの話をじっくり聞くことができたように思えた。

四谷さんは、12歳で母親を亡くした。父親の再婚相手との確執もあって、高校卒業後、北海道から単身上京。東京大空襲や敗戦の惨状を体験する。戦後、読みあさった社会科学の本の影響で、ある日、新橋にあった日本社会党本部の門をたたく。

四谷さんは、日本社会党誕生とほぼ同時に党員となる。焼酎を飲み煙草をくゆらせながら、20代の情熱を社会革命にささげる。片山内閣成立、党の右派左派分裂、党の再統一、社会党から民主党への分裂、社民党創設、……こんな時代を生き、新宿区議、東京都議を歴任し、今にいたっている。

あっと驚く、度の過ぎたいたずらなど、笑えるエピソードも紹介したいが、スペースがない。女性史に関係の深い場面を2つだけ紹介する。

「あるオンナ党員の半生」を読んで_c0166264_11114390.jpg1949年4月10日、日比谷公会堂で「婦人の日大会」があった。歴史上初の保革を超えた女性の集まりだった。スローガンは「婦人よ自ら封建の鉄鎖を断ち切れ」「職場の実質的男女平等の獲得」「社会保障制度の即時実施」「労働基準法の完全実施」の4つ。

どれもこれも、いまだに到達できていない女性差別撤廃に必要不可欠のことばかりだ。3000人が集まった。この成功の影に四谷さんがいた。

それまで、女性たちは、政党の違いから分裂していた。「婦人の日大会」も同様だった。しかし、四谷さんは、女性が初めて選挙権を行使した1946年4月10日を記念して、女性が党を超えて政治意識を高めなくてはならないと、願った。社会党婦人部(現在の女性部)の代表として企画・運営のすべてを担った。他党と粘り強く交渉説得にあたった。その結果、40以上の団体が結集することになった。

もうひとつは、四谷さんの藤原道子さんへの憧憬について。藤原さんは、衆参あわせて6期を務めた国会議員だ。四谷さんは「私にとって母親のような存在」と、表現している。

藤原さんは、小学校5年で中退し、印刷女工となり、その後、苦労の末、検定試験に合格して派出看護婦になり、本所深川のスラムで活動を続けた。常に警官の尾行つきの活動で、紡績女子行員の過酷な労働条件に反対するビラをまいていて、背負った赤ん坊ごと警察に留置されたこともあった。社会運動家の夫が、別の女性との間に子どもをつくったことで離婚。しかし、後にその子どもを育てた。

「寝ても覚めても」社会のひずみの中であえぐ人たちのために闘い、医療・福祉など社会保障制度確立を訴えぬいた。左派社会党時代、女性問題についての活動が目覚ましかったのは、藤原さんに負っている、と四谷さんは本で語っている。

座談会で四谷さんが、「思わず涙が出た」と語ったのは、「道を拓いた女たちの肖像展」で藤原道子さんの写真を見たからだ、と後にわかった。

四谷さんも苦労人だ。「防空壕の中で体をねじまげたまま焼け死んだ人など、正視できない悲惨さを見た体験」を人生の原点として、今なお活動を続ける。私にとっては、お姉さんというよりお兄さんと呼びたい先輩である。


三井マリ子

【写真:上は本の表紙。下はデモの先頭に立つ四谷信子さん(最右)】
by bekokuma321 | 2012-07-18 11:15 | その他