2012年 07月 13日
飯田しづえさん
ある女性が、私にこう言った。2012年6月30日、豊中市のすてっぷにて、集会「バックラッシュをはねかえそう!」が終わった後だった。
バックラッシュとは「反動」という意味で、男女平等を逆流させようとする動きを指す。集会は、『バックラッシュの生贄ーフェミニスト館長解雇事件』(旬報社)の出版をきっかけに、豊中市民が企画した。
私は、2004年3月、バックラッシュ勢力に屈した豊中市によって職場から追放された。こんな仕打ちを許してはならないと思った私は、提訴した。そして昨年1月、最高裁で勝った。
6月30日の会で、私は、人格権侵害をした豊中市の犯罪的行為が判決という形で未来永劫残ることになった、と伝えた。
判決の中身を聞いた参加者の1人が、昔、豊中市議会で活躍した故飯田しづえさんを思い出したのだろう。往年の飯田しづえさんの顔がパーっと浮かんだ。
私が豊中で働くようになったのは、2000年秋。その後まもなくだったと思う。飯田しづえさんを伴って私のところにやってきた友人のおかげで、私は直接飯田さんに会ってお話することができた。すでに飯田さんは90歳を過ぎていた。今から10年前のことだ。
都議会議員2期を務めた私は、飯田さんの議員時代の働きぶりに関心を抱いた。飯田さんについて調べた。飯田さんは、1955年という早い時代に市議会議員に初当選。以来、7期も連続当選した。
働く女性にとって不可欠だった保育所の問題、合成洗剤追放など暮らしの問題、さらには伊丹基地撤去運動などの平和運動----市民運動と議会の間を行ったり来たりしながら闘ってきた女性だった。20代の頃、左翼演劇活動に参加したからという理由で、教職の場を奪われるという経験もした。
当時、私は、男女平等についての講演をよく頼まれた。世界、日本、そして豊中市の女性の闘いの歴史が一目でわかる年表をつくって資料として配布しようと思い立った。
豊中市がすでに作成していた書面を取り寄せた。見たら、そこには女性議員についての記載はない。豊中市に初めて女性議員が誕生したのはいつなのだろう。調べたら、1955年だった。その初の女性議員は、私が親しくお話した、あの飯田しづえさんだった。
全体のバランス上、固有名詞は書かないほうがいいと考え、「1955年、豊中市に初の女性議員誕生」と書いた。同時に、増えるたびごとの選挙年を書き入れ、女性議員増の歴史を一目でわかるようにした。それ以来、飯田さんに、豊中市女性議員第1号の印象を聞きたいと思うようになった。しかし、飯田さんの体調が思わしくなく、願いはかなわなかった。
さて2012年6月30日、豊中市の講演を終えた私は、京都の友人宅におじゃました。友人は、翌朝、居間にかけたカレンダーを1枚めくって7月にした。すると飯田しづえさんが、こちらを見て笑っているではないか。
「姉妹たちよ 女の暦2012」(ジョジョ企画)7月号は、飯田しづえさんだった。
自宅にもどった。同じカレンダー「女の暦2012」が、洗面所の壁にかかっている。私は、6月のカレンダーをめくって7月にした。そう、飯田しづえさんの笑顔が、また目の前に表れた。
飯田しづえさんは、「おもしろかってんよ」と、私を励ます。今朝も・・・。
【写真は「姉妹たちよ 女の暦2012」7月号より。飯田しづえ(1909-2003)。作:ジョジョ企画】
【2000年、大阪府豊中市で働くようになった私は、ただちに、国連、日本、豊中の3つにわけて、女性がどう前進してきたかの年表づくりにとりかかった。豊中市研修所所長をしていた奥田さんから、飯田しづえさんが豊中市女性議員第1号であると聞いていた私は、すてっぷ職員や市民にこのことを伝えた。ところが、そのことを知る人は誰もいなかった。日本の女性の地位が低い理由のひとつに女性議員の少なさがあると考えていた私は、年表を女性の政治参加を強調して作成することにした。こうして、年表『前進する女たち』ができた。3つの年表の第1行目には、国連「1946年女性の地位委員会」、日本「1878年高知の楠瀬喜多参政権要求」、そして、豊中「1955年豊中市初の女性市議1名誕生」と明記した。以来、私は、館長として挨拶や講演をする際の資料に、この年表をいつも配布した。そして「豊中初の女性市議って誰か知ってますか」と語りかけた。というわけで、飯田しづえさんは私にとって忘れえない人だった】