「原発事故でうずく心」

c0166264_15392414.jpg2012年6月14日、長野県下諏訪町で、「世界の女たちは今」という講演をした。内容は、報告「クオータと女性運動が鍵」 (岡田ふさ子)に詳しい。企画したのは樽川通子さん。長野県の女性議員躍進に多大な貢献をした元下諏訪町議だ。

その講演会が終わった後、懇親会があった。私は、1年前の信濃毎日にのった「原発事故でうずく心」という樽川さんの投稿を皆に紹介した。

1970年代の中部電力の動きと樽川さんの対応、40年後の今の樽川さんの心情を垣間見ることのできる貴重な記録だ。

中部電力唯一の原発である浜岡原発は、1号機を1976年、2号機を1978年に運転を開始している。樽川さんは、電力会社の度重なる説得を断りきれず、諏訪地域の女性を対象とした会の会長を引き受けてしまった。そのころを思い出し、樽川さんは「罪悪感にも似た奇妙な思い」で胸がうずくと書く。

電力会社は、年に何百億円もの広報宣伝費を使う。世論を原発容認へと誘導してゆくための経費だ。当時の大手新聞紙面の派手な広告は、ネットで出回っている。ひとつは、「汗だけじゃない、放射線も出ています…私たちの身体」 元気はつらつ女性が6人、ジャズダンスをしている。女性の目を意識した広告だ。放射線はとりたてて騒ぐほどではない、と教訓をたれている(上の写真。『朝日ジャーナル』臨時増刊号 2012年3月発行)。

浜岡原発の始動にあたって、中部電力は、女性の取り込み作戦にぬかりなかったはずだ。どの町でどの人をパイプ役にすべきか、聞き込みをしただろう。そして長野県の下諏訪町で最適な人を見つけた――それが樽川さんだった。勉強会は「みずうみ会」と名づけられた。貸切バスでの視察旅行、講演会、接待、お土産…。懐柔攻勢が続いた。

40年前の文章を押し入れから出してきて人前にさらし、うなだれる樽川さん。その姿勢に私はかすかな感動を覚えた。同時に、自分の頭で考え、判断する訓練を常日頃からしていないと、いつなんどき懐柔されるかわからない、と思った。

「原発事故でうずく心」(2011年6月27日「私の声」)全文を以下に掲げる。

昭和52年(1977年)の春、私は地元の婦人会長を引き受けた。
そのころ、原子力発電所の増設問題をめぐり、さまざまな声が県
内外にあふれていた折でもあり、私は本紙記者の取材を受けた。

建設に否定的な私の意見が新聞の片隅に載った日、自宅に電力会
社の地元幹部が訪れた。「婦人会長という立場にある者の発言と
しては、いかがなものか」という内容だった。自分の思っている
ことも自由に発言できないのであれば、会長はすぐに辞退すると
答えて、物別れとなった。

少し時が流れて、電力会社は地元還元という大義を掲げ、女性に
学習の場を提供するための組織を県内でも各地に作りたいので、相
談に乗ってほしいと要請して来た。その時すでに諏訪地域の女性を
対象とした会員名簿が作成されていたが、初代会長を私にという話
にはさらに驚かされた。

「口封じ策だ」「懐柔策だ」と私は反発したが、辛抱強く説得され、
受諾した。その瞬間、なぜか全身の力が抜けて落ちた。

高名な講師を中央から迎えて講演会を開催した。ダム湖の視察もし
た。原発の見学には大型バスが用意されていた。料理教室も開かれ、
会報まで発行した。会長が何人か交代するころ、原発に関する記事
が新聞に載ることも少なくなり、豊富な電力の恩恵を社会が受け入
れたころ、気が付いたらその組織は消えていた。

あの時は私なりに精いっぱい原発のことを考え、行動したという
自負がある。だが、このたびの東京電力福島第一原発の事故を受
け、慙愧とも悔恨ともつかない罪悪感にも似た奇妙な思いが、心
の深いところでうずいている自分を持て余している今日このごろ
である。(引用以上)

(樽川通子・82歳・諏訪郡)     

2012年6月14日、樽川さんは、この文を紹介した私に近寄ってきて、こう言った。「この記事が出たあと、下諏訪の誰ひとり、私に何も言ってきません。『利用されたように思う』でもいいし、  『あの節はお世話さまでした』でもいい、何か思い出すことがあるはず。何一つ言ってこないことが不気味なんです」

[樽川さんの新聞投稿の出典は「うらおもて・やまねこ」
http://kyoko---fairisfoulfoulisfair.blogspot.jp/2011/07/blog-post_09.html]
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by bekokuma321 | 2012-07-08 15:53 | 紛争・大災害