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姉妹よ、まずかく疑うことを習え

姉妹よ、まずかく疑うことを習え_c0166264_13105771.jpg映画『山川菊栄の思想と活動ーーまずかく疑うことを習え』を見た。3月24日、ウィメンズプラザ。

山上千恵子監督、山川菊栄記念会(代表井上輝子)企画。2011年の作品。映画紹介を兼ねて、印象的な場面を書いてみる。

タイトルは、山川菊栄が1918年に書いた短文「男が決める女の問題」のなかにあることばだ。

当時、文部省の女子教育会議に、女性はひとりもはいっておらず、男性だけだった。それを、彼女はこう怒る。

「私たちはいかなる理由によって、私たち自身の意思を無視して審議し決定せられた彼らのいわゆる教育的方針なるものに従って、生ける傀儡となって果つべき義務を認めねばならぬのか」

そして、こう断じる。

「私たちの姉妹よ、まずかく疑うことを習え。かく疑うことを知った時、そしてこの疑いをあくまで熱心に、あくまで執拗に追及することを学んだ時、そこには私たち婦人の救いの道が開かれることを・・・」

今、私は全国フェミニスト議員連盟の同志たちと、女性議員がひとりもいない地方議会は、地方自治にも民主主義にも背く、として運動をしている。「女性ゼロ議会」を足で歩いて、説得しているが、道は遠い。21世紀なお、この日本に、山川菊栄のこの言葉があてはまる。

山川は、女性の働く権利を学ぶ場「赤瀾会」結成に参加し、運動を続ける。しかし、1900年以来、治安維持法によって女性は政治的無権利となり、活動は困難を極める。

彼女は、べーべル『婦人論』を完訳し、日本の女性解放の思想の発展に貢献する。私が30代のころ読んだ、べーベルの『婦人論』は、山川菊栄が30代のころ、彼女の手で翻訳されて世に出されたのだった。あらためて驚愕した。

1930年代以降、軍国化、言論統制が強まる。彼女には、論文の発表の場すらほとんどなくなってしまう。そんなとき、夫山川均と、藤沢市に300坪の土地を借りて、うずら飼育をし、うずら卵を売って生計をたてた。

そして敗戦。社会党内閣が誕生し、労働省が新設された。山川菊栄は初代労働省婦人少年局長となる。戦前からアメリカの関係資料を研究していた、山川は、希望に燃え、まず人事に着手。それが実にふるっている。

国の婦人少年局の政策を日本全土に広めるため、各県に地方職員室を設置することになっていた。しかし、その主任として、地方から上がってきたのは、男、男、男。男性だけだった。さもありなんと、思う。

山川菊栄は、地方から上がってきた男性だけのリストを無視した。無視しただけに終わらなかった。彼女は主任として働く女性を見つけ出すため、自分の足で全国を歩き回った。そしたら、適任者は、全国にいたのである。そして、全国の「婦人少年局地方職員主任」を、ことごとくすべて女性にした!

こうして、足で全国を回るトップがどこにいようか。そうして決めた「オール女性人事」もまた、当時の現実を超えているどころか、21世紀の現実すら超えている。

私自身の経験を話そう。2000年、私は、全国公募で大阪府豊中市の男女共同参画推進センターすてっぷ初代館長に選ばれ、着任した。その後、「ヌエック」で開かれた全国女性関連施設の代表などの研修会に参加した。受付に向かった。その前まで歩いていったら、係りの人が私に、「あなたは、あっちです」と言うではないか。そこには「館長」(事務局長だったか?)と「職員」と書いた2種類の用紙が貼られてあって、私は、館長のほうに歩いていったからだった。「私は館長です」と言ったら、恐縮していた。

しかし、ホール内の、館長という用紙のある場所に座ったのは、私を除いて全員男性だった。受付の人が、「あなたは、あっちです」と私に言ったのは、ごく自然な反応だったのだ。繰り返すが「女性関連施設」の話だ。豊中市のすてっぷも、今は男性を館長にすえた。

さて、映画に戻る。

山川菊栄が、リーフレットやポスター制作に知恵と工夫をこらしたかを、元婦人少年局職員の方々が証言する。「イロハからわかりやすく書いてある・・・折り方ひとつにしても関心をひくように・・・」と。山川がいかに、多くの国民に、女性問題をわかってもらうために心血を注いだかが、わかる。

しかし、数年後、山川菊栄局長は解雇される。

ある日突然、人事院の管理職試験に「受からなかったから辞めていただきます」と言われ、山川菊栄は局長職を追われることになった。山川局長の秘書を2年間していた原田冴子さんは、こう証言する。

「それを口実にしてお引き取り願った、と。政策の変更で、切りたくなったのでしょうね、はっきり言えば。他の幹部にしてみれば、ホッとしたんじゃないかと思いますけど。首に鈴をつけるつけ方が大変巧妙だったなと、思ってます」

見事な分析である。この場面で、私は、「私とまったく同じだ」と心の中で叫んだ。

館長をしていた私は、「すてっぷ体制を強化するためだ」という名目で、突如、やめさせられた。同時に、設けられた次期館長試験を受験したところ、「不合格です」とされ、完全に豊中から放逐されてしまった。

時代は違い、私は大阪地裁に提訴した。そして、最高裁で勝利した。変な試験に不合格だったからと、「退職」させられた局長山川菊栄は、どれだけ無念だったことだろう。察するにあまりある。

この映画を見て、山川菊栄の闘いをさらに大きくしなければならない、と私は新たに決意した。

社会主義思想家、女性解放理論家として仰ぎ見ていた、山川菊栄。その山川の、働く女性の苦悩、窮乏生活の苦労、そんな一女性の側面を描いてくれた山上千恵子監督に心から感謝する。
by bekokuma321 | 2012-03-26 12:57 | その他