沖縄県平和祈念資料館、ひめゆり平和祈念資料館

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5月1日、雨の中、バスを乗り継いで那覇市から糸満市に。

沖縄県平和祈念資料館(上)、ひめゆり平和祈念資料館を見学をした。

沖縄県平和祈念資料館は、平和祈念公園内の、海岸が美しい台地
にある。両館とも、その充実した展示物から、学ぶことが多かった。

c0166264_17375917.jpg日本政府は、長い歴史を持つ琉球王国を抹殺し、日本の県に組み入れ、言語や文化、風習を奪った。1879年(明治12年)のことだ。琉球処分という名の植民地化政策を断行。軍隊を琉球に出して鹿児島県に編入後、同年中に沖縄県とした。

徹底した差別と弾圧を強行した。琉球語を使わせないようにするため、方言を使ってしまった生徒の首に「方言札」をかけて辱めを与えた(左写真)。木でつくられ、かまぼこの板より少し大きめのサイズ。


c0166264_181220.jpgその延長戦上に、第2次大戦の、日本で唯一の県民総動員作戦があったのだ。死者24万人、その半数以上が民間の県民だった。

この「軍機を語るな」の軍機とは「軍の機密」。秘密を漏らしてはいけないという命令を徹底するためのポスター。軍の機密を口にしたものはスパイとされ、スパイ狩りが行われてゆく。東ドイツのシュタージは知っていても、日本政府のやったことは知らなかった自分の無知に恥じる。

そしてアメリカ機が配った宣伝ビラや降伏を促すビラをポケットに持っていただけで、敵側スパイとされて殺された。落ちてくるビラを拾うことなど不可能だった。日本軍は、こうして沖縄県民が集団自決するしかすべのない道をつくっていった。


ひめゆり平和祈念資料館のほうは…。

沖縄県師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の女生徒222人、教師18人が、南風原の陸軍病院に配属された。日本軍の命令が来たのは1945年3月23日深夜だったという。

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陸軍病院に動員と聞いて、女生徒たちは「砲弾の飛んでこない、赤十字の旗が立てられた病棟で看護活動をするものだ」と思ったという。ところが、10代の女生徒たちを待ちうけていた現実は…。激しい砲爆撃の戦場そのものだった。

負傷兵の看護、水汲み、飯上げ、死体処理、埋葬に追われ、仮眠をとるひまもなかった。血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えない環境に3か月。

そして、日本軍は、6月18日、突然「解散命令」を出し、女生徒を戦火にほおり出す。写真は、10代の女生徒たちが働かせられた沖縄陸軍病院第3外科壕跡。

目をそむけたくなる地獄の日々が、写真やオブジェで知らされる。
人が人を食う阿鼻叫喚、軍人・兵隊の非道な行為・・・。

この2つの資料館は、日本人だけでなく、世界の人々も見るべきだと思った。

救いは、ゴールデンウィークの日々、家族連れや、恋人や友人どおし
で、見学に来ている人が多かったこと。アメリカ人家族も何組もいた。
3歳ぐらいの子や、小学生も熱心に見ていた。


■沖縄県平和祈念資料館
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/
■ひめゆり平和祈念資料館
http://www.himeyuri.or.jp/top.html
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by bekokuma321 | 2011-05-02 09:55 | 紛争・大災害